「散歩」  藤次郎は散歩が好きである。自ら「趣味は、散歩」と豪語している。  休日で天気が良い日には、藤次郎と玉珠は一緒に散歩に出かけていた。そこで、色々な 場所を巡り、珍しい品物や美味しい物を見つける事が二人には楽しかった。でも、月末の 給料日の後の週末は、藤次郎は決まって上野〜御徒町〜秋葉原〜神保町を巡る。  藤次郎にくっついて歩いている玉珠は、月末にはいつも同じようなルートを歩く藤次郎 にいい加減に飽きが来ていた。このルートを歩く藤次郎のことを玉珠は友人や会社の同僚 に、  「藤次郎の縄張り巡り」 と言って、小馬鹿にしていた。  「ねぇ、藤次郎。なんでいつも同じような道を歩くの?」 と、ある日いつものように月末に上野駅を降りた藤次郎に対して玉珠は言った。  「…同じ?同じじゃないよ」 と、笑ってかわす藤次郎に玉珠はふくれた。  上野駅構内でお土産屋さんを物色し、下谷稲荷に参拝した藤次郎に不満ながらも付いて 行った玉珠の心の中では「いつもと同じじゃない!」と言う思いがあった。  そして、御徒町のアメ横では二人して買い物を楽しんでいたが、それから、宝飾品街を 覗いて秋葉原方面に向かう藤次郎に対して、とうとう玉珠の不満が爆発した。  「ねぇ、藤次郎。もっと他の所に行きましょうよ」 と、玉珠は駄々をこねた。藤次郎は、玉珠の前に立ちふさがるように立ち、  「じゃあ、何が見たい?」 と言った。藤次郎のその言葉に玉珠は戸惑ってしまった…  「…いや…別にないわ」 と答える玉珠に対して、  「たとえば、こんなのはどお?」 と言って、藤次郎は玉珠の手を引いて一本の細い路地に入った、そこは古ぼけた家の多い 路地裏で、一本の桜の老木が花を咲かせていた…  「わぁ…綺麗」  さっきまでの不満が吹き飛び、玉珠は感動した。  「この木は、空襲を逃れて生き残ったそうだよ」 と説明する藤次郎に、  「こんなとこ、一度も通った事ないじゃない!」 と玉珠は言った。  「そうかい?」 と言って、藤次郎は一軒の靴屋を指さした。  「この店は、よく俺が覗くだけで済ませる靴屋だよ」 と藤次郎に言われて、玉珠はにわかに思い出した。  「いつも同じような場所を通っていても、日々の様子は変わるものだよ」 と言って、藤次郎は微笑んだ。そして  「こういった路地を歩いていると、毎日同じ道を歩いていても、ある日気に留めていな かった裏路地が見つかることがある。見ているはずなのに気づかない…でも、向こうから 気づかせてくれるときもあるのだよ」 と、続けて言った。玉珠はその言葉の意味が分かったような分からなかったような気がし た。  「引き返そう。上野の山も今日は見頃だ。アメ横で酒とおつまみを買っていこう」 と言う藤次郎に、  「うん」  玉珠はうれしそうに返事をした。  御徒町で、一つのパックとしては二人で食べるには十分すぎるくらいのおつまみのセッ トと缶ビールを持って上野公園の桜の木の下で花見客に混じって藤次郎と玉珠は寄り添っ て腰掛けていた。しかし、周りの花見客の騒々しさに二人ともいささか辟易していた。  「ねぇ、藤次郎。どこかよそに行こう」 と、玉珠は言った。  「どこがいい?」  「うーーん、もっと静かに桜が見たいわ」  藤次郎は暫く思案顔で考えていたが、  「それじゃぁ、神田明神に行こう。あそこは宴会が出来ないから、お酒が飲めないけど 花見客が居ないから、静かに桜が見ることが出来るよ。それでもいい?」  「うん」  「じゃぁ、秋葉原をパスして、不忍池から、湯島天神を抜けて行こうか」  「うん、行こう行こう」  「ちょっと、山坂あるけどね」 と言って、藤次郎は先に立ち上がると玉珠の手を取った。  不忍池を渡り、湯島天神を抜けて神田明神の方向に向かう。このあたりは連れ込みホテ ルが多い。藤次郎と玉珠はそう言ったホテルの前を通るたび「寄っていく?」「あら…い いわね」とか、「ここ良さそう…ねぇ、寄っていきましょうよ」「うん…今度ね」と、半 分本気のような冗談のような会話をしながら、ブラブラと歩いていった。  やがて蔵前通りに向かって下っていく坂道にさしかかる頃、藤次郎はふと  「このそばに、”妻恋神社”と言う神社があるんだ」  「ふーーん。何の神社?」  首を傾げる玉珠に対して藤次郎は、  「たしか…日本武尊命の奥さんの弟橘姫を祭って居るんだとか…なんでも日本武尊命が 東征の折りに、この地に来たときに死んだ妻を慕って詩を詠んだとかで、彼は妻が死んだ のを悲しみ『あずまはやー!』と叫んだそうだ。それが坂東の語源になったそうだよ」  藤次郎の蘊蓄に感嘆した玉珠は、  「ふーーん、私が知っているのは、今の千葉あたりの海で海が荒れるので、夫の日本武 尊命を助けるために、自ら海に飛び込んだって聞いているわ」 と切り返した。  「それは、ここに来る前らしい」 と言う藤次郎に対して、玉珠は握っていた藤次郎の手を少し強く握り、  「奥さんを愛していたのね」  「そうだね」  二人とも、どちらともなく寄り添った。  蔵前通りを渡ると、神田明神の裏鳥居に続く階段があり、それを登る。本殿の脇を抜け るとそこは満開の桜があった。  「わぁ、綺麗…」  玉珠は感嘆の息を漏らした。  神田明神に参拝してから駐車場に向かう。駐車場は、桜の花びらが敷き詰められていた。  「歩くのが勿体ない」 と言う玉珠を藤次郎は手を引いて歩いた。  藤次郎はふと立ち止まって、桜の花びらが溜まっているところをひとすくい手ですくう と、「えい!」と言って、玉珠の頭に振りかけた。玉珠は歓喜の声を出しながら、二人し て、しばし童心に返ってはしゃいでいた。  やがて、同じようなことをしてはしゃいでいる子供の姿と、いい歳をしてはしゃいでい る二人を見る大人の冷たい視線を感じて、  「いこ!」 と、どちらか問わず藤次郎と玉珠は手を引いて神田明神の大鳥居の方向に歩き出した。  小川町界隈を歩いていて、  「そろそろ、この辺りの店の雰囲気が、ウィンタースポーツから春夏のアウトドアスポ ーツの用品に変わる頃だなぁ…」 と、独り言を言っている藤次郎の横顔を玉珠は黙って見ていた。そして、神保町の交差点 で信号待ちをしているとき、ふと玉珠は  「そうか…藤次郎は、季節感をこのルートを歩くことによって感じてるんだ」 と、独り言を言った。  「なにか言った?」  騒音で玉珠の独り言がよく聞こえなかった藤次郎が聞いた。  「ううん…何でもない」 と首を横に振る玉珠の顔がほころんでいた…それは、多分藤次郎に対して新しい発見をし たからであろう… 藤次郎正秀